2007,10,02, Tuesday
近鉄南大阪腺は阿部野橋を出て古墳群に向かって走ります。

藤井寺駅は大阪の阿部野橋駅から準急で約15分。人口約6万6千人の藤井寺市の玄関口です。かっては駅の南西に近鉄バファローズの本拠地藤井寺球場が街のシンボルとしてそびえていましたが、それもなくなり現在は私立学校の建設が進んでいます。藤井寺の中心は地上を走る近鉄によって完全に南北に分けられ市民は不便な生活を強いられています。
藤井寺駅南西降り口 昔は近鉄バファローズを応援するファンでにぎわいました。

駅の北口にはロータリーがあり小さなビルがその周りを囲んでいます。

このロータリーは全く車の通行のためのもので、市民が集まって世間話をしたり、ベビーカーを押した若い母親たちが散歩するような場所ではありません。もちろんヨーロッパの町で見られるようなパントマイムや手回しオルガンなどを見ることはありません。
ただし秋の祭の時はだんじりが続々と集合し、すごく盛り上がります。

ロータリーの東側に東西にのびる道があり、結構こぎれいな婦人服などの商店があり、道はきれいに舗装され、街灯もお金をかけたものとなっています。ぶらぶらするにはいいところですが、残念なことに、街灯を見上げると、電線が蜘蛛の巣の如く張り巡らされており、せっかくの住民の意図が踏みにじられたものとなっています。もっとも大阪の郊外の町で、すっきりした空を持つ町並みはどこにもありませんので、これも仕方のないことなのでしょう。

空を覆う電線のためモダンな街灯もはっきり見えない

駅周辺は小規模ながら建物が密集し、あまりめぼしい歴史的遺物は見られません。
しかし駅の北側5分ほど歩いた所にあるダイアモンドシティーの地下には、ショッピングセンター建設に伴う調査で発掘された、奈良時代の役所の存在を思わせる大規模な掘立柱建物群の写真が展示されています。このあたりも本格的に発掘すればもっと色々出てくるのではと思われます。

藤井寺は緑の少ない街で、その代わり古墳が多く、巨大な天皇陵がふんだんにあるため、植林などは市の仕事ではないと認識されているのでしょう。それでも街には時折面白い木が見られます。
奇妙な形をしています

立派な木です

藤井寺の道路は狭く、主要な道路である駅南側の道もバスが通れば道幅に余裕がなく、例えば駅から保健所へ行くのに歩行者は苦労します。特に老人やハンディキャップのある人々、車椅子に乗っている障害者にとってはとても住みにくい街です。
保健所は近代的な建物です。

保健所に行く道は歩くのも自転車でも一苦労です。

駅の南東の商店街を抜けると西国33箇所の5番札所葛井寺があります。この寺には素晴らしい奈良時代の国宝千手観音像や豊臣時代の重要文化財四脚門(現在の西門)その他見るものはたくさんあります。機会を見て近い将来もっと詳しく紹介したいと思います。

葛井寺を左に見て南に少し行くと辛国神社の鳥居が右側に見られます。この神社は古墳と共に藤井寺市の緑の量を辛うじて維持している貴重な場所です。平成元年(1989年)『大阪みどりの百選』に選ばれた素晴らしい参道を持っています。由緒についてははっきりしたことは不明で、辛国は韓、唐、漢に通じるため渡来系の氏神神社か物部氏の一族である韓国氏の関係が取りざたされていますが、どうも詳細は不明のようです。
空から見た辛国神社:緑のない町の貴重な神社

二つの鳥居と本殿



辛国神社を南に行くと小学校がありその更に南側の住宅地内に鉢塚古墳があります。墳丘の長さは60mの前方後円墳ですが、幼稚園や駐車場、住宅に囲まれ肩身の狭い思いをしている古墳という印象です。南100メートルにある巨大古墳の仲哀天皇稜と同じく5世紀末から6世紀初頭の建造だと言われています。墳丘に登れば確かに前方後円墳だと言うことが納得できます。
Google Earthで見た鉢塚古墳 南(下方)は仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)

図解鉢塚古墳


車に囲まれた鉢塚古墳

鉢塚古墳に上る

古墳の頂上

鉢塚古墳からさらに南に行くと左側(すなわち東側)に大きくて奇妙な建物があります。これは藤井寺の市立生涯学習センターです。名前はアイセルシュラホールと名付けられています。外観は藤井寺で発見された古代の運搬用具である巨大な修羅を模したものです。修羅そのものは長さが9m近くあり、現在は安藤忠雄が建てた大阪府立近つ飛鳥風土記の丘に展示されています。小修羅は長さが3m足らずで、市立藤井寺図書館にあります。
空からのシュラホール

シュラホールの外観



シュラホール入り口:アイセルとはActivity(活動)、Infomation(情報)、Consultation(相談、協議)、Exchange(交換)、Learning(学習)の頭文字を取って名付けたもの。すなわちA,I,C,E,L(アイセル)です。なんだか判ったような判らないような名前です。

シュラホールの展示
国府遺跡などの旧石器などが展示されています。

はさみ山遺跡:もと近鉄バファローズの名キャッチャー梨田選手の自宅の工事中に出ためずらしい旧石器時代の住居遺跡

貴重な舟形埴輪や城山古墳から出土した重要文化財の水鳥形埴輪、西安で発見された井真成の墓碑(レプリカか?)など興味深い展示があります。
野中古墳より発掘された鉄製の鎧

仲哀天皇稜南西にあった岡古墳から発見された船形埴輪

前期の巨大古墳とされる津堂城山古墳の東側周濠から発見され重要文化財に指定された水鳥形埴輪

西安近郊で発見された井真成の墓碑

その拓本

シュラホールを出てしばらく南に行くと右側すなわち西側に巨大古墳が現れます。全長242mの仲哀天皇陵です。考古学的には先ほどの鉢塚古墳と同じく5世紀末から6世紀初めにかけて建造されて物とされています。5世紀末と言えば中国では南北朝時代で大同にある世界遺産の仏教遺跡、雲崗石窟が最盛期を過ぎ、北魏の洛陽遷都とともにその近郊の同じく世界遺産である龍門石窟にその座を譲ることになる時期であり、ヨーロッパでは西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン人の傭兵隊長オドアケルが東ゴート王のテオドリックに暗殺された頃にあたります。仲哀天皇陵は考古学上、岡ニサンザイ古墳と呼ばれ、時代的には仲哀天皇が日本書紀では3世紀初期の人、色々説はあるが実際は4世紀末の人ではないかとされていますから、少なくとも100年の開きがあります。日本書紀や古事記を読んでいると、この天皇は敦賀に行宮を立て、紀伊の国巡行中に熊襲の叛逆を聞き穴門の豊浦(山口県)を経て筑紫に行き熊襲を撃とうとしたが、神がかりとなった自分の妻の神功皇后が新羅征伐をすべきだと言う指示に随わなかったため死亡、最終的には河内の恵賀の長江(書紀は河内の国の長野陵)に葬られたということになっています。なんだか不幸な話です。
明治末期に来日したイギリス人の記録によると仲哀天皇陵周辺には鉢塚古墳を含め7基の古墳があったと記録されているそうですが、現在までその場所が確定されたのは4基です。
Google で見る仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)




水鳥がたくさん見られます。




現在の墓地より見る古墳

シュラホール2階展望台より見る仲哀天皇稜

仲哀天皇陵の真南にはかって落塚古墳という径約20mの円墳がありましたが、1967年頃住宅開発のため消失したということです。
また、仲哀天皇陵の前方部東側に北の割塚と南の割塚と呼ばれる古墳がありました。もともと一つの古墳でそれを二つに切り裂いたものと伝えられていたとのことです。南の古墳は今も保護の対象となっていますが、北の古墳は岡古墳と呼ばれ、宅地造成に伴い発掘されました。その際円筒埴輪列や銅鏡などと共に大きな船形埴輪が出土し、現在はシュラホールで展示されています。
これは残された南の割塚です。


藤井寺駅は大阪の阿部野橋駅から準急で約15分。人口約6万6千人の藤井寺市の玄関口です。かっては駅の南西に近鉄バファローズの本拠地藤井寺球場が街のシンボルとしてそびえていましたが、それもなくなり現在は私立学校の建設が進んでいます。藤井寺の中心は地上を走る近鉄によって完全に南北に分けられ市民は不便な生活を強いられています。
藤井寺駅南西降り口 昔は近鉄バファローズを応援するファンでにぎわいました。

駅の北口にはロータリーがあり小さなビルがその周りを囲んでいます。

このロータリーは全く車の通行のためのもので、市民が集まって世間話をしたり、ベビーカーを押した若い母親たちが散歩するような場所ではありません。もちろんヨーロッパの町で見られるようなパントマイムや手回しオルガンなどを見ることはありません。
ただし秋の祭の時はだんじりが続々と集合し、すごく盛り上がります。

ロータリーの東側に東西にのびる道があり、結構こぎれいな婦人服などの商店があり、道はきれいに舗装され、街灯もお金をかけたものとなっています。ぶらぶらするにはいいところですが、残念なことに、街灯を見上げると、電線が蜘蛛の巣の如く張り巡らされており、せっかくの住民の意図が踏みにじられたものとなっています。もっとも大阪の郊外の町で、すっきりした空を持つ町並みはどこにもありませんので、これも仕方のないことなのでしょう。
空を覆う電線のためモダンな街灯もはっきり見えない
駅周辺は小規模ながら建物が密集し、あまりめぼしい歴史的遺物は見られません。
しかし駅の北側5分ほど歩いた所にあるダイアモンドシティーの地下には、ショッピングセンター建設に伴う調査で発掘された、奈良時代の役所の存在を思わせる大規模な掘立柱建物群の写真が展示されています。このあたりも本格的に発掘すればもっと色々出てくるのではと思われます。

藤井寺は緑の少ない街で、その代わり古墳が多く、巨大な天皇陵がふんだんにあるため、植林などは市の仕事ではないと認識されているのでしょう。それでも街には時折面白い木が見られます。
奇妙な形をしています
立派な木です
藤井寺の道路は狭く、主要な道路である駅南側の道もバスが通れば道幅に余裕がなく、例えば駅から保健所へ行くのに歩行者は苦労します。特に老人やハンディキャップのある人々、車椅子に乗っている障害者にとってはとても住みにくい街です。
保健所は近代的な建物です。
保健所に行く道は歩くのも自転車でも一苦労です。
駅の南東の商店街を抜けると西国33箇所の5番札所葛井寺があります。この寺には素晴らしい奈良時代の国宝千手観音像や豊臣時代の重要文化財四脚門(現在の西門)その他見るものはたくさんあります。機会を見て近い将来もっと詳しく紹介したいと思います。

葛井寺を左に見て南に少し行くと辛国神社の鳥居が右側に見られます。この神社は古墳と共に藤井寺市の緑の量を辛うじて維持している貴重な場所です。平成元年(1989年)『大阪みどりの百選』に選ばれた素晴らしい参道を持っています。由緒についてははっきりしたことは不明で、辛国は韓、唐、漢に通じるため渡来系の氏神神社か物部氏の一族である韓国氏の関係が取りざたされていますが、どうも詳細は不明のようです。
空から見た辛国神社:緑のない町の貴重な神社

二つの鳥居と本殿



辛国神社を南に行くと小学校がありその更に南側の住宅地内に鉢塚古墳があります。墳丘の長さは60mの前方後円墳ですが、幼稚園や駐車場、住宅に囲まれ肩身の狭い思いをしている古墳という印象です。南100メートルにある巨大古墳の仲哀天皇稜と同じく5世紀末から6世紀初頭の建造だと言われています。墳丘に登れば確かに前方後円墳だと言うことが納得できます。
Google Earthで見た鉢塚古墳 南(下方)は仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)

図解鉢塚古墳


車に囲まれた鉢塚古墳

鉢塚古墳に上る

古墳の頂上

鉢塚古墳からさらに南に行くと左側(すなわち東側)に大きくて奇妙な建物があります。これは藤井寺の市立生涯学習センターです。名前はアイセルシュラホールと名付けられています。外観は藤井寺で発見された古代の運搬用具である巨大な修羅を模したものです。修羅そのものは長さが9m近くあり、現在は安藤忠雄が建てた大阪府立近つ飛鳥風土記の丘に展示されています。小修羅は長さが3m足らずで、市立藤井寺図書館にあります。
空からのシュラホール

シュラホールの外観



シュラホール入り口:アイセルとはActivity(活動)、Infomation(情報)、Consultation(相談、協議)、Exchange(交換)、Learning(学習)の頭文字を取って名付けたもの。すなわちA,I,C,E,L(アイセル)です。なんだか判ったような判らないような名前です。

シュラホールの展示
国府遺跡などの旧石器などが展示されています。

はさみ山遺跡:もと近鉄バファローズの名キャッチャー梨田選手の自宅の工事中に出ためずらしい旧石器時代の住居遺跡

貴重な舟形埴輪や城山古墳から出土した重要文化財の水鳥形埴輪、西安で発見された井真成の墓碑(レプリカか?)など興味深い展示があります。
野中古墳より発掘された鉄製の鎧
仲哀天皇稜南西にあった岡古墳から発見された船形埴輪

前期の巨大古墳とされる津堂城山古墳の東側周濠から発見され重要文化財に指定された水鳥形埴輪

西安近郊で発見された井真成の墓碑

その拓本

シュラホールを出てしばらく南に行くと右側すなわち西側に巨大古墳が現れます。全長242mの仲哀天皇陵です。考古学的には先ほどの鉢塚古墳と同じく5世紀末から6世紀初めにかけて建造されて物とされています。5世紀末と言えば中国では南北朝時代で大同にある世界遺産の仏教遺跡、雲崗石窟が最盛期を過ぎ、北魏の洛陽遷都とともにその近郊の同じく世界遺産である龍門石窟にその座を譲ることになる時期であり、ヨーロッパでは西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン人の傭兵隊長オドアケルが東ゴート王のテオドリックに暗殺された頃にあたります。仲哀天皇陵は考古学上、岡ニサンザイ古墳と呼ばれ、時代的には仲哀天皇が日本書紀では3世紀初期の人、色々説はあるが実際は4世紀末の人ではないかとされていますから、少なくとも100年の開きがあります。日本書紀や古事記を読んでいると、この天皇は敦賀に行宮を立て、紀伊の国巡行中に熊襲の叛逆を聞き穴門の豊浦(山口県)を経て筑紫に行き熊襲を撃とうとしたが、神がかりとなった自分の妻の神功皇后が新羅征伐をすべきだと言う指示に随わなかったため死亡、最終的には河内の恵賀の長江(書紀は河内の国の長野陵)に葬られたということになっています。なんだか不幸な話です。
明治末期に来日したイギリス人の記録によると仲哀天皇陵周辺には鉢塚古墳を含め7基の古墳があったと記録されているそうですが、現在までその場所が確定されたのは4基です。
Google で見る仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)




水鳥がたくさん見られます。




現在の墓地より見る古墳

シュラホール2階展望台より見る仲哀天皇稜

仲哀天皇陵の真南にはかって落塚古墳という径約20mの円墳がありましたが、1967年頃住宅開発のため消失したということです。
また、仲哀天皇陵の前方部東側に北の割塚と南の割塚と呼ばれる古墳がありました。もともと一つの古墳でそれを二つに切り裂いたものと伝えられていたとのことです。南の古墳は今も保護の対象となっていますが、北の古墳は岡古墳と呼ばれ、宅地造成に伴い発掘されました。その際円筒埴輪列や銅鏡などと共に大きな船形埴輪が出土し、現在はシュラホールで展示されています。
これは残された南の割塚です。

2007,06,14, Thursday
最近我々のクリニックでも足に異常のある患者さんが増えているような感じがします。テレビでミズムシの治療薬を頻繁にコマーシャルするようになると特に多くなります。足の水虫はよく知られていますし、一般の人が薬局で医者の指導なしに薬を自由に買うことが出来ます。勿論その中にはミズムシでもない足の疾患に市販の薬を使用して治癒しないので、何種類かの薬を買ってきて試している人もいるようです。ミズムシが治らないと言うのは過去のことで、診断さえしっかりしていれば必ず治るものです。それでもよくならない場合は診断が間違っているか、薬が古くて期限切れになっているか、しっかり塗っていないか、治っても頻繁に接触する人が全く治療せず。あちこちにカビを撒き散らしているので再感染を繰り返しているかなどが考えられます。今きっちり塗っていれば治癒するものだと言いましたが、足の爪に出来たものはそうは行きません。内服薬と外用薬を併用し、熱意を持って(医師も患者さんも)治療に精をださないとうまく完治することは出来ません。


この2枚の写真は外用と内服によりよくなっていく途中がよく分かる症例です。
ところが

このように爪が厚くなってしまった場合は漫然と治療していてはなかなかよくなりません。
そこで、出来るだけ爪を薄くして治療します。

僕はこのように爪を薄くして白癬菌の好きなケラチンの層を出来るだけ無くすようにしています。

上のような症例も努力をすれば驚くほどきれいになりますが、そのためには医者だけでなく本人や家族の治したいと言う強い意志が必要だと思っています。
ミズムシに次いで多いのが爪の変形です。


上の写真のような巻き爪は治療に苦労するのが普通です。昔は手術で治していましたが、当クリニックでは現在では特殊なものを除いて手術することはなく、超弾性ワイヤーや人工爪を使用することにより治療しています。

ワイヤーはこのように付けますが、注意すれば特に難しいものではなく、患者さんによっては怖がる方もおられますが、付けるのに数分で傷みはほとんどありません。ただ付けたワイヤーは爪の変形と共に移動しますので、2週間に1回ぐらいチェックしなければなりませんし、爪の先が当たるとワイヤーが取れたりするので、運動はあまりできません。

手術しなくても時間はかかりますが、これぐらいにはなります。
下の爪は陥入した爪に菌が感染して肉芽腫の状態になったものです。一般にこれも巻き爪と言っている場合が多いようですが、実際は自分で切ったり自然に爪が折れてなる深爪と靴による圧迫のため爪が陥没してしまい医学的には陥入爪という状態となり、痛いのでさらに深爪をして悪化させるという悪循環に陥り、その上靴下や靴という密閉した環境により細菌感染を来たしてしまったものです。


このような陥入爪も感染を治してきれいにした後、巻き爪と同じように爪に下の写真のようにワイヤーを入れて治します。


小さなプラスチックチューブを使うこともあります。

さらには人工爪を接着し爪の正常な発育を促進させることもあります。

このように苦労して治しても管理が悪いと再発します。陥入爪は爪の切り方、靴の履き方が非常に大事です。特に今の子供はなぜか深爪が好きで、また昔と違って折れやすい弱い爪のような気がします。学校や家庭での指導が必要だと思っています。時には年季の入った母親でも深爪が悪いと言われたのはこの年になるまで経験がないといった人がいました。
時には爪の黒色斑や線を悪性ではないかと心配されて来られます。


確かに黒いと心配です。ごくまれですが、悪性黒色腫であることがありますので、慎重に診断しなければなりません。確定診断は病理診断以外ありません。多くは外傷性の血腫や母斑細胞母斑(色素性母斑)ですが、爪を削ったり、爪を取って組織を取らなければならないこともあります。
また下の写真のように爪の下に腫瘍が出来て来院される場合があります。多くは線維腫や神経線維腫などの良性の腫瘍です。


爪の周りにも腫瘍は出来ます。

もちろん足の裏にも色々なものが出来ます。
たとえば下の写真のような疣もあります。治療に長期かかります。

ウオノメは最もポピュラーなものの一つです。医学的には鶏眼(けいがん)と呼んでいます。ヨーロッパの表現を日本語に訳したものです。多分ヨーロッパでは鳥の目に見え、日本では魚の目に見えたのでしょう。ちなみにフランス語ではヤマウズラの目(oeil-de-perdri) と言うそうです。取るのは少し技術はいりますが、下の写真のように取れればしばらくは再発しません。ただ常に狭い範囲の圧迫を靴等から受け、靴の中で足が動いていると再発するので、しばしば通院する必要があります。ちなみにウオノメやタコは取るのに麻酔いりません。一個1分から2分で取れます。

タコは大きさや深さによって取る難しさは色々です。当クリニックには毎月4-5個のタコの治療のために通っている患者さんが何人かいます。靴の履き方の指導をするのですがどうも聞いていないようです。それでも丁寧に取っているとだんだんタコが薄くなっていくように思います。


中にはとったタコをもって帰る方もおられます。
この写真の方はタコが出来たので取ってくれと言って来院されたのですが、実は足底皮下に腫瘍があってそのためにタコが出来たのです。

切除直後の写真です。

角層を取ったところです。

皮膚を取ったところです。

その他色んな腫瘍の方がこられます。
下のは先ほどのと同じ表皮嚢腫が破れて来院されたものです。

汗腺から出来た腫瘍です。

肉芽腫です。

血管腫です。

色素性母斑です。悪性黒色腫との鑑別が必要です。今はまずダーモスコピーで見て、最終的には組織検査で診断します。

当然足の外傷も来ますが、下の写真のような潰瘍も来ます。原因は色々で糖尿病、動脈性の閉塞疾患を考える必要があります。

糖尿病を放置していると下の写真のように壊疽を起こし、ついには切断しなければなりません。
急性期の壊疽。

進行した壊疽。

また寝たきりとなると床ずれが発生します。

もちろん火傷も来ます。

火傷は初期治療が重要です。うまく治療すれば跡形を残さないで治すことが出来ます。特にお湯によるものは適切な治療をすれば比較的軽く短期に治癒することが多いですが、炊飯器などの蒸気や熱した金属、化学薬品によるものは時にひどい瘢痕を残すことがあります。
よく来られるのが足の湿疹の患者さんです。ほとんどの方がミズムシの薬を使って治らないので来たと言っています。僕のような皮膚科の専門医でも見ただけでは診断がつかないのに、普通にミズムシの薬が売られているためこのようなことが起こるのでしょう。

この写真で診断がつくでしょうか?僕が顕微鏡検査してはじめてミズムシではないと診断出来たのです。
下の写真は薬局の人からミズムシだと言われ塗った薬でかぶれた症例です。

湿疹と似ていますが、下のような症例もあります。

掌跡膿疱症です。原因不明で年余にわたり増悪軽快を繰り返します。咽頭炎やたばことの関係が取り沙汰されています。また金属アレルギーが原因だと言うNHKの放送があり、多くの方が高いお金を出して歯の金属を取ってしまったということもありました。その結果治ったと言う訳でもなさそうです。女性の患者が増えているようで、当院でもほとんどが女性です。

これは末梢循環不全の方の足です。冬にしもやけをはじめたくさん来られます。唐辛子チンキなどを使いますが、なかなかよくなりません。効くと思われる内服薬や外用薬はない訳ではありませんが、保険では認められていませんので、保険医である僕は処方できません。
最後の写真ですが、著明な足変形の方です。同様の高度な変形を持たれている方は結構います。

外反母趾、タコ、そしてミズムシ、その他の指の変形。若い頃は細身のハイヒールを履いて街を闊歩されていたのでしょうか。年齢と共に筋力が衰え変形が著明になったのではないかと推測されます。このような足でもミズムシやタコの治療と共に5本指の靴下着用と毎日のマッサージ、足じゃんけん、適切な靴などで結構ましになって行きます。


この2枚の写真は外用と内服によりよくなっていく途中がよく分かる症例です。
ところが

このように爪が厚くなってしまった場合は漫然と治療していてはなかなかよくなりません。
そこで、出来るだけ爪を薄くして治療します。

僕はこのように爪を薄くして白癬菌の好きなケラチンの層を出来るだけ無くすようにしています。

上のような症例も努力をすれば驚くほどきれいになりますが、そのためには医者だけでなく本人や家族の治したいと言う強い意志が必要だと思っています。
ミズムシに次いで多いのが爪の変形です。


上の写真のような巻き爪は治療に苦労するのが普通です。昔は手術で治していましたが、当クリニックでは現在では特殊なものを除いて手術することはなく、超弾性ワイヤーや人工爪を使用することにより治療しています。
ワイヤーはこのように付けますが、注意すれば特に難しいものではなく、患者さんによっては怖がる方もおられますが、付けるのに数分で傷みはほとんどありません。ただ付けたワイヤーは爪の変形と共に移動しますので、2週間に1回ぐらいチェックしなければなりませんし、爪の先が当たるとワイヤーが取れたりするので、運動はあまりできません。

手術しなくても時間はかかりますが、これぐらいにはなります。
下の爪は陥入した爪に菌が感染して肉芽腫の状態になったものです。一般にこれも巻き爪と言っている場合が多いようですが、実際は自分で切ったり自然に爪が折れてなる深爪と靴による圧迫のため爪が陥没してしまい医学的には陥入爪という状態となり、痛いのでさらに深爪をして悪化させるという悪循環に陥り、その上靴下や靴という密閉した環境により細菌感染を来たしてしまったものです。

このような陥入爪も感染を治してきれいにした後、巻き爪と同じように爪に下の写真のようにワイヤーを入れて治します。
小さなプラスチックチューブを使うこともあります。

さらには人工爪を接着し爪の正常な発育を促進させることもあります。
このように苦労して治しても管理が悪いと再発します。陥入爪は爪の切り方、靴の履き方が非常に大事です。特に今の子供はなぜか深爪が好きで、また昔と違って折れやすい弱い爪のような気がします。学校や家庭での指導が必要だと思っています。時には年季の入った母親でも深爪が悪いと言われたのはこの年になるまで経験がないといった人がいました。
時には爪の黒色斑や線を悪性ではないかと心配されて来られます。


確かに黒いと心配です。ごくまれですが、悪性黒色腫であることがありますので、慎重に診断しなければなりません。確定診断は病理診断以外ありません。多くは外傷性の血腫や母斑細胞母斑(色素性母斑)ですが、爪を削ったり、爪を取って組織を取らなければならないこともあります。
また下の写真のように爪の下に腫瘍が出来て来院される場合があります。多くは線維腫や神経線維腫などの良性の腫瘍です。


爪の周りにも腫瘍は出来ます。

もちろん足の裏にも色々なものが出来ます。
たとえば下の写真のような疣もあります。治療に長期かかります。

ウオノメは最もポピュラーなものの一つです。医学的には鶏眼(けいがん)と呼んでいます。ヨーロッパの表現を日本語に訳したものです。多分ヨーロッパでは鳥の目に見え、日本では魚の目に見えたのでしょう。ちなみにフランス語ではヤマウズラの目(oeil-de-perdri) と言うそうです。取るのは少し技術はいりますが、下の写真のように取れればしばらくは再発しません。ただ常に狭い範囲の圧迫を靴等から受け、靴の中で足が動いていると再発するので、しばしば通院する必要があります。ちなみにウオノメやタコは取るのに麻酔いりません。一個1分から2分で取れます。

タコは大きさや深さによって取る難しさは色々です。当クリニックには毎月4-5個のタコの治療のために通っている患者さんが何人かいます。靴の履き方の指導をするのですがどうも聞いていないようです。それでも丁寧に取っているとだんだんタコが薄くなっていくように思います。


中にはとったタコをもって帰る方もおられます。
この写真の方はタコが出来たので取ってくれと言って来院されたのですが、実は足底皮下に腫瘍があってそのためにタコが出来たのです。

切除直後の写真です。

角層を取ったところです。

皮膚を取ったところです。

その他色んな腫瘍の方がこられます。
下のは先ほどのと同じ表皮嚢腫が破れて来院されたものです。

汗腺から出来た腫瘍です。

肉芽腫です。

血管腫です。

色素性母斑です。悪性黒色腫との鑑別が必要です。今はまずダーモスコピーで見て、最終的には組織検査で診断します。

当然足の外傷も来ますが、下の写真のような潰瘍も来ます。原因は色々で糖尿病、動脈性の閉塞疾患を考える必要があります。

糖尿病を放置していると下の写真のように壊疽を起こし、ついには切断しなければなりません。
急性期の壊疽。

進行した壊疽。

また寝たきりとなると床ずれが発生します。

もちろん火傷も来ます。

火傷は初期治療が重要です。うまく治療すれば跡形を残さないで治すことが出来ます。特にお湯によるものは適切な治療をすれば比較的軽く短期に治癒することが多いですが、炊飯器などの蒸気や熱した金属、化学薬品によるものは時にひどい瘢痕を残すことがあります。
よく来られるのが足の湿疹の患者さんです。ほとんどの方がミズムシの薬を使って治らないので来たと言っています。僕のような皮膚科の専門医でも見ただけでは診断がつかないのに、普通にミズムシの薬が売られているためこのようなことが起こるのでしょう。

この写真で診断がつくでしょうか?僕が顕微鏡検査してはじめてミズムシではないと診断出来たのです。
下の写真は薬局の人からミズムシだと言われ塗った薬でかぶれた症例です。

湿疹と似ていますが、下のような症例もあります。

掌跡膿疱症です。原因不明で年余にわたり増悪軽快を繰り返します。咽頭炎やたばことの関係が取り沙汰されています。また金属アレルギーが原因だと言うNHKの放送があり、多くの方が高いお金を出して歯の金属を取ってしまったということもありました。その結果治ったと言う訳でもなさそうです。女性の患者が増えているようで、当院でもほとんどが女性です。

これは末梢循環不全の方の足です。冬にしもやけをはじめたくさん来られます。唐辛子チンキなどを使いますが、なかなかよくなりません。効くと思われる内服薬や外用薬はない訳ではありませんが、保険では認められていませんので、保険医である僕は処方できません。
最後の写真ですが、著明な足変形の方です。同様の高度な変形を持たれている方は結構います。

外反母趾、タコ、そしてミズムシ、その他の指の変形。若い頃は細身のハイヒールを履いて街を闊歩されていたのでしょうか。年齢と共に筋力が衰え変形が著明になったのではないかと推測されます。このような足でもミズムシやタコの治療と共に5本指の靴下着用と毎日のマッサージ、足じゃんけん、適切な靴などで結構ましになって行きます。
| 久志本クリニックについて::医療記事 | 14:35 | comments (0) | trackback (x) |
2007,06,14, Thursday
今年も「国際ロータリー第2640地区(南大阪・和歌山)http://www.rid2640g.org/の親善大使として1年間海外の高等学校に通いながら、国際親善に努め、派遣国のロータリアンの家族又は、ロータリークラブで選考された家庭での生活を通じて異文化を体験し、同時に日本を正しく紹介することにより、国際理解に努め世界平和への架け橋の一端を担うこと」を目的として募集を行うこととなりました。以下をご覧になり希望生徒又はその保護者は高校の担任に相談しして下さい。
「応募資格」
1.募集時15歳以上で、出発時の年齢が18歳未満の高校生であること。男女は問いません。
2.学業成績が上位1/3以上で、学校推薦とロータリークラブの推薦を受けたもの。
3.精神的、肉体的、社会的に健康であること。
4.日本国籍を有するもの。
5.出来れば出発までに希望する国の言葉にある程度堪能であることが望ましい。
「派遣時期と滞在期間」
2008年(平成20年)8月に出発、翌年の7月に帰国することとし、滞在期間は1年を超えないこと。
「選考試験」
英語の筆記試験・リスニングテストと一般常識問題・面接があります。
選考試験は、平成19年(2007年)9月30日(日)の予定。
「派遣学生保護者の費用負担」
往復の航空機運賃及びこれに付随する費用は各自の負担となりますが海外での生活費や学費等はロータリークラブが 負担します。ただし、派遣先で国内旅行をする場合の費用や若干の保険料等は各自の負担です。毎月、ロータリークラブ から約6,000円程度のお小遣いが支給されます。
「締め切り」
2007年(平成19年)7月末日。
仮申請書に必要事項を記入の上、最寄のスポンサークラブになるロータリークラブ(例えば藤井寺しゅらロータリークラブ http://www.shura-rc.com/) に提出のこと。
地区青少年交換委員会はスポンサークラブからのみ仮申請書を受け付けます。従って、ロータリークラブを通さずに直接 地区の事務局の送ることは出来ません。
この交換プログラムは、相手国からの日本への派遣を希望する学生がいない場合には成立しませんから、志望国に必 ず行けるとは限りません。
「派遣可能国」
アメリカ、カナダ、オーストラリア、メキシコ、インド、タイ、ドイツ、台湾、デンマーク、マレーシア、ブラジル等。

「応募資格」
1.募集時15歳以上で、出発時の年齢が18歳未満の高校生であること。男女は問いません。
2.学業成績が上位1/3以上で、学校推薦とロータリークラブの推薦を受けたもの。
3.精神的、肉体的、社会的に健康であること。
4.日本国籍を有するもの。
5.出来れば出発までに希望する国の言葉にある程度堪能であることが望ましい。
「派遣時期と滞在期間」
2008年(平成20年)8月に出発、翌年の7月に帰国することとし、滞在期間は1年を超えないこと。
「選考試験」
英語の筆記試験・リスニングテストと一般常識問題・面接があります。
選考試験は、平成19年(2007年)9月30日(日)の予定。
「派遣学生保護者の費用負担」
往復の航空機運賃及びこれに付随する費用は各自の負担となりますが海外での生活費や学費等はロータリークラブが 負担します。ただし、派遣先で国内旅行をする場合の費用や若干の保険料等は各自の負担です。毎月、ロータリークラブ から約6,000円程度のお小遣いが支給されます。
「締め切り」
2007年(平成19年)7月末日。
仮申請書に必要事項を記入の上、最寄のスポンサークラブになるロータリークラブ(例えば藤井寺しゅらロータリークラブ http://www.shura-rc.com/) に提出のこと。
地区青少年交換委員会はスポンサークラブからのみ仮申請書を受け付けます。従って、ロータリークラブを通さずに直接 地区の事務局の送ることは出来ません。
この交換プログラムは、相手国からの日本への派遣を希望する学生がいない場合には成立しませんから、志望国に必 ず行けるとは限りません。
「派遣可能国」
アメリカ、カナダ、オーストラリア、メキシコ、インド、タイ、ドイツ、台湾、デンマーク、マレーシア、ブラジル等。

2007,06,03, Sunday

この写真はザンビア側から見た滝です。ザンビア側には動物保護区、ローデシア(現在はジンバブエ)側は国立公園となっています。
リビングストン市にある動物保護区のマーク

滝の幅は約1700mで落差は118mあります。この滝はあの有名なリビングストンが発見し自分の女王の名前をつけたのですが、発見と言うよりヨーロッパ人として初めて眼にしたとした方が正確です。なぜなら現地の人は当然ながら昔からこの滝を知っていて、ちゃんと彼らの言葉で名前を付けていたのです。モシ・オア・トゥニャと言うらしいですが、「とどろく煙」という意味があり、滝の落ちる轟音と激しい水煙の様子をよく示しています。子供の頃リビングストンのアフリカ探検の物語を読んでアフリカに憧れ、有名なスタンレーとの劇的な遭遇に涙したものですが、実際にこの滝に来てあこがれのリビングストンが自分の女王の名前を付けたのにはなにか違和感が感じられました。われわれはリビングストンはイギリス人と思っていますが、本当はあの誇り高いスコットランド人なのです。
滝はザンビアの首都ルサカの南西約380kmにあります。ザンビア側には現在マランバと呼ばれている昔の北ローデシアの首都リビングストンがありました。滝の少し下流には南アフリカのケープタウンより鉄道が通じていて、イギリスが支配していた頃は南北の交通の要地であったとのことでした。

滝のローデシア(現在のジンバブエ)側には国立公園やホテルがあり、滝に煙る林の中にリビングストンの像が立っていました。
ザンビア側から見た滝

滝の上流にはたくさん島があり、水も少ないため象がたくさん住んでいるとのことだったが、残念ながら僕は見に行けませんでした。滝の下流に観光用の橋が付けられていたが、橋の上からは水煙がひどくあまり見えず、また服はずぶぬれになってしまうし、音がすごく短時間しか橋の上にいることが出来ませんでした。





ローデシア入国ビザ

ローデシア側からの滝



ビクトリア・フォールズ・カジノ・ホテル


カジノ入場許可証

スロットマシーン


泊まったホテルでカジノをしました。カジノは入場許可書を手に入れないと出来ません。ローデシアはその当時白人が支配していたので、完全に差別社会です。トイレも有色人種と白人種とは違う所でしなければなりません。なぜか日本人は白人と同じことをしてよいとのことでした。いわゆる名誉白人と認められていたのです。だからカジノもパスポートを見せると問題なく入れてくれました。中国人やインド人、パキスタン人はどんなお金持ちでも入れないとのことでした。と言うことでわれわれもネクタイをして、白人に混じってカジノを楽しみましたが、結局は無駄金を使ってしまっただけでした。
ザンビア再入国ビザ

2007,04,24, Tuesday
診療とは全く関係ないのですが、最近経験した印象的な話を紹介します。
僕の長兄は戦争中海軍の水兵でした。戦後よく足の傷みを訴えていたのですが、事情を聞くと、セレベス島(現在のスラウェシ島)のマカッサル(現在のヴシェン・パンダ)港停泊中にアメリカ軍の爆撃に会い、船から港に飛ばされ負傷したとのことでした。彼は最近その船のことが乗っている本が目に付き、買ってよく見ると丁度爆撃された様子が写真撮影されているのを見つけたとのことでした。1943年(昭和18年)6月23日午前11時15分爆撃が始まり、4隻の軽巡洋艦が停泊中の港に向かって米空軍機B24により爆弾が落とされたのです。4隻の内命中したのは「鬼怒」という船だけでした。2発が左舷にあたりました。その船に兄は乗っていて砲の爆発と共に飛ばされ踵の骨を骨折したのです。3人が死亡し17名が負傷したのですが、兄は負傷した内の一人でした。今も首や顔に飛んできた破片で出来た傷が残っています。米軍はそのような時もしっかり写真を撮り後の論功行賞の証拠としたのだと考えられます。多分その飛行士は立派な勲章を手に入れたことでしょう。
軽巡洋艦鬼怒


爆撃されるマカッサル港

爆撃される鬼怒


アメリカ合衆国国立公文書館所蔵(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ32号より)
僕の長兄は戦争中海軍の水兵でした。戦後よく足の傷みを訴えていたのですが、事情を聞くと、セレベス島(現在のスラウェシ島)のマカッサル(現在のヴシェン・パンダ)港停泊中にアメリカ軍の爆撃に会い、船から港に飛ばされ負傷したとのことでした。彼は最近その船のことが乗っている本が目に付き、買ってよく見ると丁度爆撃された様子が写真撮影されているのを見つけたとのことでした。1943年(昭和18年)6月23日午前11時15分爆撃が始まり、4隻の軽巡洋艦が停泊中の港に向かって米空軍機B24により爆弾が落とされたのです。4隻の内命中したのは「鬼怒」という船だけでした。2発が左舷にあたりました。その船に兄は乗っていて砲の爆発と共に飛ばされ踵の骨を骨折したのです。3人が死亡し17名が負傷したのですが、兄は負傷した内の一人でした。今も首や顔に飛んできた破片で出来た傷が残っています。米軍はそのような時もしっかり写真を撮り後の論功行賞の証拠としたのだと考えられます。多分その飛行士は立派な勲章を手に入れたことでしょう。
軽巡洋艦鬼怒


爆撃されるマカッサル港

爆撃される鬼怒


アメリカ合衆国国立公文書館所蔵(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ32号より)
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